政治が歪めた原爆被害のデータ
NHKスペシャル
「原爆初動調査 隠された真実」
8月9日放送/22:00~23:15/日本放送協会
76年前、広島と長崎に落とされた原爆の被害を調査するため、アメリカは終戦直後、大規模な調査団を派遣した。焦点の一つは残留放射線の問題だった。原爆は国際法違反の兵器ではないかとの世論が高まり、駐留したアメリカ兵が被爆すれば反発は避けられなかった。調査では、風下51キロメートルで通常の2倍の放射線を測定し、長崎市西山地区では、4日で一年間の限度を超える放射線を測定した。しかし、マンハッタン計画の総責任者だったグローブス少将らは文書やデータを廃棄するよう命令した。グローブスの報告書は「残留放射線はない」と存在を完全に否定し、これがアメリカ政府の公式見解となった。ソ連との冷戦が始まり、残留放射線に目を閉じ、核開発で世界をリードすることを最優先にしたのだ。
長崎市西山地区では「原因不明の死」が相次いだ。松尾トミ子さんの義理の妹は23歳で、白血病で亡くなった。西山地区は爆心地の山陰で原爆の熱線や爆風は来なかったが、原爆の投下された日、どろどろとした油っこい雨が降ったという。アメリカ軍は住民の血液検査で、白血球の値が頻繁に正常値をはるかに超えたことから残留放射線の人体への影響を長期間にわたって調べていた。このことを知った松尾さんは「人として見ていない感じで、実験みたい」だと憤った。
ソ連も終戦直後に日本で原爆の被害を調査していた。報告書は、「被爆地は報道されていたほど恐ろしい状況ではない」としている。報告は、スターリンが原爆の威力を否定していた政治方針に沿ったものとなっていた。
アメリカの調査に参加した医師の孫は「祖父は深い苦悩にさいなまれていた。グローブスは医師の専門性を利用し、祖父は『共犯者』になっていた」と話す。
資料を丹念に調べ、関係者や遺族の証言を重ねて、隠された真実に迫ろうとする力作だ。事実が明らかになっていれば、救われた命があったかもしれない。番組は、コロナ禍の今、政治と科学の関係を改めて問いかけているように思う。(石田研一)
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日本の戦争が押し付けた「不条理」
ドキュメンタリー「解放区」
「李鶴来 不条理と闘った男」
8月15日放送/24:58~25:58/TBSテレビ
今年4月に「ザ・フォーカス」を引き継いで始まったドキュメンタリー「解放区」が76回目の終戦記念日に放送したのが、この「李鶴来 不条理と闘った男」だった。
日本の植民地下の朝鮮に生まれた李さんは、太平洋戦争で泰緬鉄道建設に駆り出された連合軍捕虜の監視員となった。戦後BC級戦犯裁判で「日本人戦犯」として死刑判決を受けたが、後に減刑され巣鴨プリズンに収監された。
李さんは1956年に仮釈放されるが、そこで待ち受けていたのは日本政府の不条理な対応だった。日本人として戦争責任を負わされながら、日本国籍がないことを理由に一切の補償を受けられなかったのだ。「日本人戦犯には恩給や慰謝料を給付しているのに、なぜ外国人戦犯を差別するのか」との思いから、李さんは同じ境遇の韓国・朝鮮人元BC級戦犯者とともに、日本政府に対して謝罪と補償を求めてきた。だが、李さんは今年3月、戦犯という汚名を晴らすことなく96年の人生に幕を下ろした。
この番組は、李さんを長年追い続けてきた「報道特集」の日下部正樹キャスターによるレクイエムだ。日本で安置されているBC級戦犯の慰霊に毎年訪れている李さんを知ったのがきっかけで取材が始まり、以降、「報道特集」で4回にわたり李さんの「不条理な思い」を取り上げてきた。その集大成がこの「解放区」である。
李さんが巣鴨プリズンで書き残した日記に記された「都合の良いときは日本人。都合の悪いときは朝鮮人」。不条理は解消されず、歴史のけじめがつけられることもなかった。日下部キャスターの「李さんを取材中、常に日本人とは何か? 日本という国家とは何か?を無言のうちに問われてきた」という言葉が重く響く。
終戦から76年。今年もあの戦争を振り返る番組が多かったなか、私たちが向き合わなければならない「戦後の今」を問いかけてくれた作品だった。(桶田 敦)
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敗戦直後の一瞬、輝いた市民たち
BS1スペシャル
「マッカーサーが来るまでに何があったのか? 終戦直後の15日間」
8月21日放送/22:00~22:50/日本放送協会 テレビ朝日映像
なんと言ってもまず、目の付けどころが素晴らしい。玉音放送、そしてマッカーサーの厚木飛行場到着。それが一般的な終戦のイメージだろう。だが知っているつもりで知らないことは案外多い。実は、玉音放送からマッカーサー到着までには15日もの時間があった。ではその間、何が起こっていたのか?
番組では、その終戦直後の市民の姿が生き生きと描かれている。ファッションや美容に再び目を輝かせる女性たち、時代を先取りした『日米会話手帳』の出版へと邁進する出版社社長、後の『サザエさん』にも通じる活力に満ちた庶民の姿を漫画に描いた長谷川町子、焼け野原となった新宿に現在の歌舞伎町の元となる一大繁華街を構想した地元の町会長、禁じられていたジャズの生演奏をいち早く実現した映画監督・マキノ雅弘など。さらには経済界でも、松下幸之助や豊田喜一郎らがすでに復興に向けて一歩を踏み出していた。
そこには、権力者中心の上からの歴史ではわからない、下からの歴史の持つダイナミズム、市民の圧倒的な逞しさ、そして時代全体の高揚感が感じられる。しかし、時の東久邇宮首相が唱えた「一億総懺悔」によって戦争責任の所在が曖昧なままにされ、マッカーサー到着以後GHQによる統制が始まるとともに、新たな時代への気運も変質を余儀なくされていく。
スタジオの山田五郎、ヤマザキマリ、足立梨花によるコメントも、当時の状況をコロナ禍後の私たちへのヒントとして読み解くなど、傾聴すべきところが少なくなかった。VTR中に3人の顔が画面の小窓に映る演出などはバラエティ的で、ドキュメンタリーとして見れば賛否両論があるだろう。しかし、ジャンルにこだわらないスタイルはテレビ本来の特徴でもあるし、今回のバラエティ的な演出は、とりわけ若い世代の視聴者が見やすいように工夫したとも受け取れる。
終戦から76年。戦争をより多角的に捉え、歴史の空白を埋めることで新たな視点を得られる番組の必要性は、今後ますます高まるだろう。そんな意欲的な試みとしてこの番組を高く評価したい。(太田省一)
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わが子に手をかけさせた玉砕の島
ETV特集
「“玉砕”の島を生きて~テニアン島 日本人移民の記録~」
8月28日放送/23:00~24:00/日本放送協会 グループ現代 NHKエンタープライズ
深い悲しみ、底知れない心の闇がそこにはあるのだろう。94歳の女性、ミサさんの語り口は淡々としていて、まるで旅行のみやげ話でもしているようだ。
東京大空襲や原爆投下に向かうB29が飛び立ったテニアン島には、開戦時に1万人を超える日本人が住んでいた。米軍侵攻に備えるための飛行場建設を突貫工事で進めていた夫が、過労がもとで亡くなり、子どもや親戚を連れたミサさんの3カ月にわたる壮絶な逃避行が始まる。米軍の圧倒的な空襲と艦砲射撃のなか、食べるものもないまま狭い洞窟を探して大勢で身を寄せ、息を詰める毎日。一人、また一人と命を落とし、水を飲みに行った5歳の娘はそのまま行方不明になる。
一人の日本兵が逃げ込んできたことによって事態はさらに悪化し、母親が手をかけて幼い子から順に殺すことを強いられる。亡くなった義妹を狭い洞窟から海に投げ込もうとして、枝に引っ掛かり、そのままキンバエがたかり、白骨化するまで見続けざるを得ない……淡々とした語り口から出る話はこの世のものとは思えない凄惨な体験の連続である。
彼女だけでなく、自らの手で母親や妹を殺し、重傷の仲間にダイナマイトでとどめを刺すなど、筆舌に尽くせない悲劇がこの島のいたる所で起きていた。
悲しみの深さのゆえか、それとも取材者との深い信頼関係によるものなのかと、淡々と語るミサさんの姿を受け止めかねていると、番組の最後に、幼児を殺そうとしてしきれなかった彼女は、二度目を繰り返すことができずに長女に委ねたという事実が、重い口を開いた長女自身の新たな証言として明かされる。
このことだけは気丈なミサさんもついに自ら語ることはなかった。自分一人の悲しみはなんとか持ちこたえられても、同じ心の地獄をわが子にも味わわせた辛さは耐え難かったにちがいない。
行方不明だった5歳の娘と後に再会できたことが、戦後福島に戻ってからも苦労を重ね、生き残った子どもたちを育て上げて100歳まで生きた女性の、せめてもの救いだったのではないだろうか。(加藤久仁)
★「GALAC」2021年11月号掲載