権力を握るものによる物語を歴史にさせない
NHKスペシャル
「緊迫ミャンマー 市民たちのデジタル・レジスタンス」
4月4日放送/21:00~21:59/日本放送協会
「20発くらい発砲された」。デモの現場で若者が、警察から逃れながら撮影した映像で始まる冒頭の4分間、彼らを覆う緊迫感に取り込まれた。
昨年11月の総選挙で国民民主連盟(NLD)が改選議席の8割強を獲得、正副大統領が決まる総選挙後初の国会が始まる2月1日、軍は選挙に不正行為があったと主張してクーデターを起こし、民主化を進めてきたNLDのアウンサンスーチー氏らを拘束、全権を掌握した。この番組は、現場から発信された映像や写真、国内外のミャンマーの人々の活動による、岐路に立つミャンマーの始まりの2カ月間の記録である。
軍のクーデターに対する市民の非暴力・平和的抵抗としてのデモの中心は若者たちだ。軍は情報統制を敷いたが、彼ら一人ひとりがメディアとなり、軍・警察の行為を撮影した映像・写真を発信。ただ歩いている若者に暴力を振るう映像など、常軌を逸した行動が次々と公開されている。仲間を殺され、デモ参加者の安全を守るために軍・警察の位置情報を発信する人、軍の資金を止めるため、軍関係企業の商品不買運動を展開する人。28日には軍と警察の武力弾圧が強化され、市民の抵抗は死を覚悟したものに転換した。
国外で暮らすミャンマー人も軍政に戻らせまいと行動している。日本在住のウィン・チョウさんは1988年の民主化を求める反政府運動に参加、軍による暴力が検証されなかったことを悔い、軍の主張を覆す証拠を国際社会、国連に示すため、発信された映像や写真を若者とともに検証している。心身の負担が大きくても「やめちゃいけない。できることを少しでも。台所でも闘う」というミミさん(29歳)の覚悟。取材班も19歳のチェー・シン(通称「エンジェル」)さんの死の真相を、これらさまざまな素材を用いてどう突き止めるか示した。
デジタル技術は市民が強大な国軍と闘うための武器だが、事実を記録し検証することで「今」を超えうる。権力を握る者による物語を歴史にさせない。それが彼らの民主化であり、レジスタンスなのだ。(細井尚子)
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スペイン風邪を舞台に描く人の愚かさ
特集ドラマ「流行感冒」
4月10日放送/21:00~22:14/日本放送協会
本木雅弘演じる「私」は妻、娘、女中二人と、のどかな郊外に暮らしている。そこに降って湧いたような流行感冒の脅威。子どもを亡くした経験のある「私」は愛する娘と家族を守るべく、未知の脅威に対して神経質なほどの警戒と対策を徹底し、家族全員に感冒を家に持ち込んではいけないと厳しく言いわたす。
ところが、年に一度の巡業芝居を楽しみにしていた女中の石(古川琴音)は我慢しきれずに見に行ってしまう。どうしても許すことのできない「私」。しかし、安藤サクラ演じる妻・春子の計らいで、暇を出すことはなんとか思いとどまる。
そんななか、「私」の油断から感染が始まり、家族揃って寝ついてしまう。献身的に家族を看護する石。感冒騒ぎで見失いかけていた「私」の心が揺り動かされ、石とのわだかまりが解けていく。そして、日ごろ「自分の心に正直に生きろ」と諭していながら、いざとなると家長の言いつけを守れないことが許せない自分の矛盾にも気づく。明治までの権威主義に抗う大正期の知識人ならではの悩みである。
未知の脅威に直面すると、人は心の中の醜い部分まであぶり出されてしまう一方で、倒れても立ち上がる飲み屋の親父(石橋蓮司)のたくましさや仲間同士の絆の強さを再認識させてもくれる。春子の言うとおり「人はそう簡単に負けない」「繋ぎ止めるものがたくさんある」のである。
布団を持ち込めば書斎がたちまち病室に変じ、氷を叩き割って作る氷嚢、立場によって違う言葉遣い、狭い女中部屋、春子の足袋の色……細部まで時代が丁寧に描かれ、所を得た演者の自然な演技により、そこに人の営みが息づいて見えた。
それにしても、風呂焚き一つとってもこの時代の人間同士の触れ合いの、なんと濃密だったことか。100年前の感染騒ぎを見ながら、コロナ禍に生きるわれわれは、はたと考え込んでしまう。医学は大きく進歩し生活も便利になったが、失ったもののほうがはるかに大きいのではないだろうかと。(加藤久仁)
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看護師の使命感にすがる医療貧国ニッポン
NHKスペシャル
「看護師たちの限界線~密着 新型コロナ集中治療室~」
4月17日放送/21:00~21:50/日本放送協会
コロナ病棟で働く看護師たちに半年間密着。窮状を知ってほしいと、東京女子医大病院が長期取材を許可した。日々のニュースではわからない過酷な業務内容が可視化され、携わる人たちの限界線と、個々の「使命感」に頼る医療行政の限界線が浮かび上がる。
意識のない人の歯磨きから人工心肺装置ECMO(エクモ)の管理まで、看護師の膨大な仕事量に驚かされる。重い防護マスクと防護服で汗も拭けないまま一日中患者の命を守り、感染対策のため病院とビジネスホテルを往復する日々。世間が「自粛疲れ」でゆるむなか、「自分の心と体が折れたら終わり」と、シングルルームでコンビニ弁当の9カ月に頭が下がる。
何よりも看護師たちの気力と体力を奪っているのが「無力感」であることも伝わってくる。普通に会話していた60代男性が意識不明→人工呼吸器→エクモ→死亡、という流れは画面で見ていても衝撃で、コロナ治療の最前線はこんなことの連続だ。
ストレス性胃炎になった看護師は「揺らがなかったものがポキッとへし折られた」。患者に笑顔を向け、手を握って励ます理想の看護が感染対策で打ち砕かれ、日に日に悪くなっていく姿に心身のバランスを崩していく。使命感を奮い立たせていた25歳のホープは「私の体を触れないでしょう」という患者の言葉に苦しみ、退職届を書いた。先の見えない消耗戦に「使命感だけではもう限界」という看護師長の言葉が重い。
コロナ患者を受け入れる病院が少なく、一部の看護師に負担が集中する医療界のいびつな構造。66歳の定年看護師や、妊娠7カ月の産休看護師までかき集めてICUを維持している異常事態に、医療大国ニッポンの現実を思い知らされる。ここまで頑張って、ボーナス半減という追い打ちに腰が抜けた。一般患者の受診控えで経営が悪化したためだが、公的な支援はほぼない。使命感を支える具体的な手だてがないのだ。
4月、ICUに6人の新人看護師が配置された。「コロナとの戦いを支えたい」。この使命感に、頼り切りではいけない。(梅田恵子)
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時代の証人となったドキュメンタリー枠
ザ・ノンフィクション
「放送1000回スペシャル」
4月11日、18日放送/14:00~14:54/フジテレビジョン バンエイト
「ザ・ノンフィクション」が放送開始から26年、1000回を迎えた。番組のなかで紹介されるスタート時の広報資料には《お父さんが娘に「一緒に見ないか?」と言えるノンフィクション・エンターテインメント》とある。2週にわたり放送されたスペシャルでは豊富な映像で26年を振り返る。
1995年10月の第1回の主役は、日本人メジャーリーガーの“パイオニア”野茂英雄。第2回は地下鉄サリン事件からおよそ半年後でオウム真理教を取り上げている。視聴者は、もうこれだけで「26年前ってこのころか」と実感させられる。番組で取り上げる対象は幅広く、阪神・淡路大震災のような大きな出来事はもちろん、コギャルやポケベルといったその時々の流行りや時代を映す事象も出てきて興味深い。
放送3年目あたりからは、小型で高画質のデジタルビデオカメラが普及し始め、それに伴ってカメラと取材相手との物理的・心理的距離が近くなってゆく。
時は“平成の大不況”、このころの映像からは、その閉塞感のなかで人生の裏通りに迷い込んでしまった人たちから目を背けない、という番組の姿勢が明確になっていることがわかる。暴走族の少年、渋谷を闊歩する“ヤマンバ”の少女、借金地獄に苦しむ人、それを取り立てる側の論理、生々しい言葉と映像の迫力。
そして2011年3月11日、東日本大震災。市井の人々のありようを写し続けてきたこの番組においても、この時をもって日本人の価値観、生き方がそれまでとは大きく変わった転機と位置づける。
長く続く番組ならではの長期取材シリーズも数多い。沖縄に暮らす父子家庭の息子の上京物語は、番組最多15回もの記録だという。また、今回の1000回スペシャルにあたってはいくつかのエピソードで追加取材をし、人や街の放送当時から今に至る変化も追って、時の流れを感じさせた。
長く続けるドキュメンタリー番組で蓄積されていくアーカイブス映像は、時代の証人、歴史の目撃者としての雄弁な力強さに満ちている。(永 麻理)
★「GALAC」2021年7月号掲載