オリジナルコンテンツ

【海外メディア最新事情】-「GALAC」2021年2月号

メディアの報道が変わった!?
ウィーンの無差別テロ

ジャーナリスト
稲木せつ子

「自分の足元は撃たない」はずが……

「危ないから外に出ないで!」。隣人からSNSが届いたのは2020年11月2日の20時半過ぎ。瞬時にウィーンの中心で起こった乱射事件を指していると察した。当方も、第一報をまとめるためにテレビやパソコンにかじりついていたからだ。自動小銃が連発される映像(市民提供)を何度もテレビで見ながら「まさか」という驚きと、「ついに」という無念の思いが交差した。
ここ数年、欧州各地でイスラム過激派による無差別テロ攻撃が続いている。そのたびに囁かれたのは、「東西ヨーロッパを結ぶウィーンはテロリストの要所だが、自らの足元を撃って手入れを招くようなヘマはしないので、ここは狙われない」という皮肉だ。悪い冗談はさておいて、地元民がこれまでは安心して暮らしていたのは間違いない。2年前の世論調査では、73%の市民が「ウィーンは安全だ」と回答している。
それだけに「25年ぶりの無差別テロ」に、多くの市民は衝撃を受けた。SNSをくれた隣人の息子さんもそのひとりで、殺害された若者とは兵役を共にした仲だったそうだ。母親は「息子はコロナなど気にせず出歩いていたのに、事件以来、不安がって家から出ない」と語る。まさに、これがテロリストの狙いなのだろう。
地元メディアも、冷や水をかけられたネズミのように、発生当初からフル回転で状況を伝えた。その報道過程で、信頼されている記者が意外なミスをおかし、既存メディアが通常の報道ルールから外れることもあった。他山の石としてそれらを紹介し、その要因を探ってみたい。

放送とネット報道の境目は?

日本では、社会性がある事件や公共性がある犯罪では、犯人の名前を実名(フルネーム)で報道するが、欧州では犯罪によって扱いが異なる。一般的に、犯人の社会復帰や犯人の家族らに対するスティグマ(烙印)を和らげるために、名前は実名で苗字をイニシャル表示にしている。例外はテロ犯罪で、近年危険思想を持つ者が犯人を「英雄」扱いできないよう、名前をイニシャルのみで報じる新聞社が増えている。公共放送でも、「犯人は――」「この男は――」などの言い方をして特定しないよう配慮している。
他方、タブロイド紙はテロでも実名で伝え、部数を稼ぐ。今回も同様で、警察が捜査中だとして実行犯の身元公開を控えたのだが、未明にドイツのタブロイド紙が、紙面とネットで武器を持つ犯人の写真付きで身元を暴露した。オーストリアでは、タブロイド紙や一部メディアが追随し、名前・イニシャル(苗字)で報じた。
同時期に、秀逸な調査報道で知られる記者がツイッターで実行犯の名前・イニシャルや特定の個人情報を発信した。警察が捜査中でもあり違和感を抱いたが、案の定、ツイッター上で実名公開を問いただす批判が出た。この記者は「ネット検索すれば誰もが見つけられる情報で暴露ではない」と弁明したが、「凶悪テロ犯の身元情報の公開の場として、ツイッターは不適切」とする意見には説得力があった。
その後、主要外国メディアのフルネーム表記に倣ってか、地元メディアは、新聞1社、民放1社を除いて、次々と実名報道に踏み切った。テロ報道の倫理は、いつのまにか消え去ったのである。
公共放送のORFですら、放送ではこれまで通り名前に言及しなかったが、ネット記事ではフルネームで実名報道している。ネットや文字媒体に引きずられた格好だ。その後のORFのネット記事は、苗字がイニシャルに変わっていることからも、発生から2日間ほど、報道姿勢での混乱があったことがうかがえる。
最もミスをおかしたのは、民放のニュース専門チャンネル「Oe24テレビ」だった。タブロイド紙『オーストライヒ』のスピンオフとしてネット配信から始まった局で、オーナー(新聞の編集長)がキャスターを務めてニュースを放送している。スタジオがテロ現場に近い場所であったため、初動で多くの生情報を伝えたのだが、タブロイド紙の編集感覚で生々しい射殺映像を繰り返し放送し、視聴者から多くの苦情が寄せられた。また写真を使って実名報道もした。
翌日夜に報道局長が「視聴者に不快な思いをさせた」と謝罪したが、多くの広告主が抗議、広告を取り下げた。地元メディアによると、メディア規制当局のコムオーストリアが、放送内容の審査を開始した。Oe24は、ケーブルと衛星で放送免許を取得しており、規制当局がOe24に具体的な制裁を科すのかが注目されている。
ORFの実名報道での「迷い」に象徴されるように、既存メディアの報道が前のめりなネット報道に強く影響される傾向が出てきている。ネットとの境目は、もはや失われたのだろうか?
確かに受け手には、違いがなくなっている。今回の事件でも、警察などの記者会見はテレビがなくとも、新聞のオンラインサイトでライブ視聴できる。そこでは、発言のまとめまでアップされるのだ。加えて、世界の主要報道機関の情報をネットから好きなときに得られるのである。これが既存の報道を変えている。
ネットの「フェイクニュース」が問題視されるが、今後はオンライン上での既存メディアの競争とその影響についても注視すべきだろう。

*1 2018年にウィーン市が行った調査。国民全体では97%が「安全と感じる」と回答(2020年8月、内務省の世論調査結果)。
*2 実行犯は二重国籍を持つオーストリア人1名で、無差別攻撃で27人を死傷させた。
*3 Plus 4(ドイツRTLグループ)

~著者プロフィール~
いなき・せつこ 元日本テレビ、在ウィーンのジャーナリスト。退職後もニュース報道に携わりながら、欧州のテレビやメディア事情等について発信している。

★「GALAC」2021年2月号掲載