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【ギャラクシー賞テレビ部門3月度月間賞】-「GALAC」2020年6月号

ねほりんぱほりん
「震災で家族が行方不明の人」
3月11日放送/22:50~23:20/日本放送協会

2016年10月にも月間賞を受賞したこの番組。東日本大震災から9年経った20年3月11日の放送では、「震災で家族が行方不明の人」がテーマだった。
登場した二人の女性は、まったく違う考え方の持ち主だ。ひとりは中学生のときに父親が行方不明になったが、その感情は悲しいというものではなく「感情のメーターがゼロになったような感じ」で、親戚にも無理していると心配され、霊媒師を紹介されたこともあったという。また、周囲の人が父親のことを美化して勝手に上書き保存をされるのがいやだったとも語る。ただ、9年間せき止めていた感情を受け止めないといけない日が来るのかもしれないなと、冷静に語ってもいた。
一方の出演者は、地震が起こった直後、夫が親戚の安否を確認しに行ったまま行方不明になったが、今も夫が生き続けていると信じている。
この女性は、震災のテレビ番組を見ると、「新しく何かを始めたり、前を向いて一歩踏み出す人が多く、いまだに受け止められない自分の気持ちは言いづらい」と思っていたというが、「今回は(番組で)ブタさんという形になったことで、正直な気持ちが言えてすっきりした」と言っていたのが印象的だった。
われわれは家族を亡くした人のことや、何か悲しい出来事に見舞われた人のことを、きっとこういう気持ちで過ごしているだろうと型にはめてしまうことがあるが、実は一つとして同じではなく、さまざまな形があるのだと知ることができた。また、この番組の持つ「匿名性」という特徴が、こんな風に生かされるのだということを実感した回でもあった。
この番組は「NET BUZZ」でも再放送された。そのとき、ディレクターが取材に入る前、心のケアの専門家から「気を使いすぎることが逆に傷つけてしまうことがある」と聞き、相手の感じ方や思い方を尊重して接したというエピソードが紹介されていた。この番組が表向きはコミカルに見えて、真摯に作られていることがより伝わってきた。(西森路代)

NNNドキュメント’20
「19人を殺した君と重い障がいのある私の対話」
3月15日放送/24:55~25:24/北日本放送

施設の重度障害者らを殺傷した植松聖被告への判決が下される前夜の放送。被告と接見した障害者の男性が、背後に潜む優生思想の広がりに警鐘を鳴らす。
富山市の八木勝自さんは、重度障害者として介護を受けながらも、障害者の自立を支援するNPO法人を運営する。健常者との真の共生社会実現を目指す八木さんは「植松を死刑にしたくない」と言い放ち、見る者を驚かせる。しかしそれは「植松ひとりが悪いのか」との強い思いがあるからだ。
かつて、自分よりも障害が重く意思を伝えられない者たちと施設で暮らした経験のある八木さんは、彼らと職員が織りなす「異常な世界に耐えきれなかった」と告白。自分も被告と同じように思ったかもしれないと明かす。だが、ひとり暮らしを始めるなかで「かわいそうとか不幸とか言うのは健常者の一方的な押しつけ。できなくたっていいじゃないか」との境地に達した。その実体験も踏まえ、「意思疎通の取れない人は有害」と口走る被告のような思想が蔓延していると危惧するのだ。
この視点は事件の凶悪さに紛れてあまり顧みられなかった。しかし劣った者、できない者は排除し、差別しても構わないという心理は、多かれ少なかれわれわれも持ち合わせているのではないか。だからこそ、あえてそれを自覚させるような報道は、タブーとしてメディアも本能的に避けたのかもしれない。
だが「意思疎通」で優劣を決める被告の考え方に、ネット上で賛同の声が寄せられているのが現実だ。処方せんはどこにあるのか悩ましいが、八木さんはそれを変えられると信じる。人の心の可塑性、改心の可能性とも言うべきもので、八木さんは被告の心にそれを響かせようと接見を希望したのだろう。
その結果はともかく、誰の心にも“植松”が潜んでいるのなら、番組は見る者の胸に「人間とは何ぞや」と響いてくる。人類は変わることができるのか。事件の闇の奥に横たわる答えなき問いかけに、八木さんの凄みのある言葉をもって挑んだ秀作だ。(旗本浩二)

「映像研には手を出すな!」
1月5日~3月22日放送/24:10~24:35/
日本放送協会 「映像研」製作委員会

大童澄瞳の同名マンガをアニメ化。「アニメは設定が命」とスケッチブックいっぱいに細かい設定を描き込んでいる浅草みどりが、プロデューサー気質の金森さやか、アニメーター志望のカリスマ読者モデル・水崎ツバメと出会い、自分たちが想像する「最強の世界」をアニメーションにするため映像研究会を立ち上げ奮闘する物語。
街の風景を見ながら、想像をめぐらす浅草たち。すると、彼女たちの想像が、アニメーションとして現実世界と地続きで描かれる。現実と想像の境目は溶解される。空想のなかで設定の矛盾が見つかれば、それが修正されディテールが描き加えられていく。そんなアニメーションならではの表現が、湯浅政明を中心とするチームによって描かれていく。その躍動感はアニメーションの快楽が詰まっている。想像のなかの効果音は彼女たち自身の声で表現するこだわりっぷりだ。
創作をテーマにした作品の場合、少数の天才の物語になりがちだが、3人にそれぞれ「監督」「アニメーター」「プロデューサー」の役割を宿すことで、自分の理想だけを追求して作ればいいというものではないということもしっかりと描いた。「監督」としては、創作の現場に加わった美術や音響など他の部署とそれぞれの意見を折衷したり、自分のやりたいことを伝える難しさや、一緒に作る楽しさを、「プロデューサー」としては、いかに限られた時間と予算内でクオリティの担保をしながら制作し、プロモーションをして金に変えていくか、といった創作の本質と現実に迫っていた。
3人の独特な会話のテンポも心地よい。主人公の浅草を演じる伊藤沙莉も素晴らしかった。
「どこの誰だか知らないけどあんたのこだわりは私に通じたぞ!って私はそれをやるためにアニメーションを描いてるんだよ」「そのこだわりで生き延びる。大半の人が細部を見なくても私は私を救わなきゃいけない!」という水崎のセリフがあるが、それを体現したこだわりに満ちたアニメ作品だった。(戸部田 誠)

ドラマ24
「コタキ兄弟と四苦八苦」
1月10日~3月27日放送/24:12~24:52/
テレビ東京 AOI Pro. 「コタキ兄弟と四苦八苦」製作委員会

古舘寛治演じる神経質で融通のきかない兄・一路と、滝藤賢一演じるちゃらんぽらんで調子のいい弟・二路。ひょんなことから「レンタルおやじ」として働くことになった二人が、さまざまな悩みを抱えた客からの依頼に応えていく姿を、時にコミカルに、時にしみじみと描いた味わい深いドラマだった。
「古滝」という苗字が「古舘」と「滝藤」の名前からきているように、もともとこの作品は「自分たちが主演のドラマを立ち上げよう」と彼ら自身が発案した企画だったという。そんな二人から「ぜひ脚本を」と依頼を受けた野木亜紀子の、個性派俳優が主演のゆるいコメディのように見せておいて、実は「苦」に焦点を当てた脚本も見事だ。物語上のスパイスとして扱われるような薄っぺらい「苦」ではなく、かといって鉛のように重い「苦」でもない。誰もがそれぞれの人生のなかで抱えている「苦」が、リアルな重さで描かれていたように感じる。
一話完結ものと思いきや、後半、彼らが通う喫茶店の店員・さっちゃん(芳根京子)の存在が大きくなっていく不思議なドライブ感も印象的。はじめのうちは互いを傷つけるものでしかなかったコタキ兄弟それぞれの欠けた部分が、次第に丸みをおびていき、最後には相手の足りない部分を埋めるようになっていく。そんな二人の変化も愛おしかった。レンタルおやじの元締役として意外に出番の多かった宮藤官九郎をはじめ、毎回のゲストたちとの演技合戦も見応え十分だ。
また月評会では、カラーグレーディングにこだわった映像が兄弟の地味で冴えない雰囲気を際立たせていた、という意見も出た。クレジットには中村義洋監督の映画などを手がけてきたカラリスト・高田淳の名前がある。野木亜紀子からのラブコールを受けて全編演出を手がけた山下敦弘監督が、そんな細やかな部分にまで気を使って作り上げた、リアルな空気感もまた、本作の大きな魅力だった。喫茶シャバダバや古滝家のあるあの街で、また新たに巻きおこる四苦八苦の物語を見てみたい。(岩根彰子)

★「GALAC」2020年6月号掲載