London
歴史的瞬間に、お仕着せは「ノー」
管理強める英政権vs.メディア
在英ジャーナリスト
小林恭子
英国は、2020年1月31日をもって欧州連合(EU)を離脱した。1973年にEUの前身となる欧州共同体(EC)に加盟してから47年。第2次世界大戦後に始まった欧州統合の流れから、英国は外に出ることになった。加盟国のなかで離脱する国は初だ。英国にとっても、世界にとっても大きな歴史的転換のときだったといえよう。
この重要な時が訪れる1時間前の午後10時(EUの本拠地ブリュッセルでは同日夜11時)、ボリス・ジョンソン英首相は国民へのメッセージが入った動画(約3分間)を官邸のフェイスブックとツイッターを通じて配信した。離脱が実現した瞬間の午後11時(ブリュッセル同12時)には、議会の大時計ビッグベンの鐘の音が厳かに流れ出した(ただし、ビッグベンは改修中で、録音されたものではあったが)。議会前の広場には離脱派の政治家や聴衆が集まり、一斉に歓声を上げた。
動画の内容と発表時間はメディア各社に先に伝えられており、BBCのニュースサイトはその概要を事前に報道していた。首相が「離脱は新しい時代の夜明けだ」と述べたという動画を筆者は見たいと思い、BBCや民放最大手ITVの24時間ニュースのチャンネルをずっとつけていたのだが、午後10時を過ぎても一向に首相が登場しない。BBCの司会者は概要を説明したが、動画自体は放送されなかった。ITVも同様であった。
後で知ったのだが、主要放送局は首相の動画をあえてそのまま出さないことを選択していた。それは「官邸が制作したものだったから」。これまでは重大事に首相が国民に語りかける必要があるとき、いずれかの放送局が官邸に入って代表取材し、ほかの放送局も動画を使えるようにするのが通例だ。政権とは独立した存在である報道機関が取材・撮影を行うことが重要であって、官邸が制作したものをそのまま流すのでは政府の宣伝になってしまう懸念があった。
放送局側の報道機関としての矜持を示した選択だったわけだが、視聴者のなかには不満も残った。BBCニュースの「ニューズウオッチ」(2月7日放送)という番組のなかで、ある視聴者が「この歴史的な瞬間に首相が国民に語ったことをテレビでそのまま聞きたかった」「誰もがソーシャルメディアを使っているわけではない」と話した。
筆者はメディアの矜持には敬意を表するものの、「官邸が制作した動画です」といった説明を加える形で放送・配信するなど工夫ができなかったのかと残念に思ったのも事実だ。なお、衛星有料放送のスカイテレビや新聞メディアのウェブサイトは動画を掲載した。
新聞界も官邸カメラマンに閉口
この「官邸制作」には、新聞界も困っていた。1月24日、ジョンソン首相は離脱文書に署名したが、この歴史的イベントの際にも、メディアの写真家は呼ばれなかった。官邸の写真家が撮影し、その画像がメディアに配信された。新聞メディアの写真担当編集者らは官邸に対し、抗議の書簡を送っている。
首相の「影の参謀」といわれるのが、上級顧問のドミニク・カミングス氏。伝統や慣習を一顧だにしない人物と言われている。彼の指導の下、官邸のメディア戦略は、確かにこれまでとは一線を画す。同氏は既存のメディアに任せるのではなく、官邸の思う通りに作ったコンテンツをメディアに配る、あるいはソーシャルメディアに直接配信してしまうほうを好むようだ。
メディアの「選り好み」も、露骨だ。例えば、総選挙の選挙戦では各党の党首は選挙チームや大手メディアの記者とともに選挙バスに乗って全国を回るのが常だ。しかし、昨年12月の下院選の選挙戦では、ジョンソン・チームは左派系大衆紙『デイリー・ミラー』の記者を同乗させなかった。同紙が最大野党・労働党に近く、ジョンソン政権に批判的な新聞だったからだ。
言論統制のためにアクセスを制限する方針は、選挙後にさらに明確化する。報道機関の写真家を使わず、もっぱら官邸の写真家に撮影させる上記の手法のほかに、官邸の広報官による報道陣向け政策ブリーフィングでも問題が起きた。
2月上旬、官邸でのブリーフィングのために集まった記者たちに対し、特定の媒体の記者(官邸が招待していた記者)は中に入れるが、ほかの記者(招待していない記者)は入れないと官邸広報官が説明した。これに対し、その場にいた記者たち全員が官邸から立ち去る抗議運動を行った。のちの官邸の説明によると、ロビー記者会(日本の国会記者会に相当する)に属する記者のなかに「内輪のサークル」があり、今回はそのサークルの記者を呼んで、EU問題についてブリーフィングを行うことを意図したというが、メディア側に不信感を植え付けた。
今のジョンソン政権は「メディアいじめ」を思う存分できる状態だ。離脱を実現させたことで首相の評価が高まったこと、下院で単独過半数の議席を持つためにどんな法案でも通せること、そして労働党が先の総選挙で大敗したことで対抗する政治勢力がほぼゼロという事情が背景にある。
なんだか、長期政権となったどこかの国の政治状況にひどく似ているように思えるこの頃だ。
~著者プロフィール~
こばやし・ぎんこ メディアとネットの未来について原稿を執筆中。ブログ「英国メディアウオッチ」、著書『英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱』(中公新書ラクレ)、『英国メディア史』(中公選書)、『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)。
★「GALAC」2020年4月号掲載